どうも!稲垣です。
スケボーは、スポーツか?カルチャーか?
こういう議論は、けっこう昔からされていて、オリンピック競技に決まってから、さらに熱く議論されているような、そんな感じがします。
議論するときには、スポーツとカルチャーをちゃんと定義して、議論する人同士が、それを共有しないと、話が噛み合わず、「なんやアイツは!話が分からんヤツやな!」という感じで、スッキリしない議論になってしまうと思うんですよね。
スケボーは、カルチャーなのか、スポーツなのかっていう議論の前に、
スポーツとは何なのか?
カルチャーとは何なのか?
っていうことを知っておくとか決めておくとかしないと、意見をぶつかり合わせるだけの議論になっちゃいますね。
しかも、スポーツの定義やカルチャーの定義なんて、僕たちスケーターが普段真面目に考えるわけもなく、最終的には、
「それぞれが楽しんだら良いんじゃね?」
というまとめで議論が終了することが多いと思います。
そんで、「それぞれが楽しんだら良いんじゃね?」は、カルチャーだと僕は思ってます。
こんなゆるい一言で済ませられるのは、ほとんどのスケーター達が、
スケボーは、勝ち負けより楽しむことの方が大切
っていうのを、誰に教えてもらうわけでもなく、スケボーをする過程で自然と身に着けた意識、考え方なわけで、これはまさにカルチャーですね。
スケボーを始めるときに、教習所にいったり、テキストを読んだりってことをしてないと思います。教えてもらったわけでもないのに、勝手に引き継がれていく空気っていうのは、カルチャーそのものだと思います。
そして、空気みたいなものだけに、気がつけない人もいるし、分からないままっていう人もいて、「スケボーは排他的」「スケボーショップは壁が高いと感じる」っていうのは、まさに、スケボーがカルチャーだからこその現れでもありますね。
それじゃあ、スポーツっていうのは、何なの?ってことになってくるんですけど、
誰が参加しても、従うべきルールと勝敗がハッキリしているもの
だと僕は思っています。もちろん、競技ではないスポーツもあるんですけど、スケボーはスポーツか?って時の議論では、勝敗をつけるっていうのが、大きなテーマなので、こういう風に定義しています。
ルールと勝敗がハッキリしているっていうことは、誰が参加しても公平に競い合えるということです。
スケボーがスポーツ化するというのは、つまり、スケボーが公平になるということなんですね。
今までは不公平だったの?っていう疑問が湧いてくると思うんですが、ハッキリ言って、不公平でした。
チームに入れるかどうかっていうのを、スケボーが上手いとか、大会で勝ったとかそういうので判断せず(もちろん判断材料にはするけど)、「良いヤツか?」とか「家族みたいに接することができるか?」で判断してきたのが、今までのスケボーです。
これをもしも、スポーツの世界でやったとしたら、大変なことになるし、成立しないですね。
スポーツは、勝てるかどうか?っていうことが優先順位の一番になります。
なので、良いヤツだけでチームに入れた下手くそなスケーターは、白い目で見られるようになります。「あいつのせいで勝てない」という雰囲気になっていきます。
カルチャーとしてのスケボーだと、良いヤツを「あいつがいたらチームは勝てない」って首にしたら、「あのチームは、クソだ」って感じで、スポーツとは逆の評価になるかもしれません。
スケボーがスポーツ化することで、スケボーは、良くも悪くも公平になります。
今までは、カッコいいヤツ、いいヤツっていう、曖昧な評価基準だったのが、何ポイントとった、何回勝ったという、誰にでも分かりやすい評価基準になります。今後、「常勝軍団」みたいに呼ばれるスケートチームが出てきたりするんですかね。タノシミデスネ。
スポーツやビジネスの世界は、勝つことが全ての世界なので、曖昧な評価基準では、スケーターを判断できないです。そういう厳しい世界があってもいいし、スポーツは厳しいからこそ、多くの人が熱狂したり、お金になったりしています。
スケボーがそうなっていくとしたら、僕は、そこから離れていこうと思っているし、そうじゃないスケボーが残っていくこともありえるだろうと信じています。
スポーツやビジネスは、ムダを嫌います。競争なので、ムダなことをしている暇などありません。いいヤツだからっていう理由で、勝てないスケーターをチームに置いておくことなど許されないのです。
だけど、僕は、いいヤツっていう理由だけで、チームにいたり、ビデオ作品に出てくる味のある面白いスケーターが大好きだし、それを許容するスケボーの懐の深さが好きです。
不公平だけど、平和っていうのが成り立つスケボーって面白いなぁと、最近、ますますスケボーが好きになってます。
今日は以上です。